喜寿のお祝いに感謝のメッセージを送ろう。

その他

「孝行のしたい時分に親はなし、さればとて石にふとんも着せられず。」

あなたはこんな詠をきいたことがありますか?

「親の愛のありがたみを知り、孝行しようと思ったその時には、それが叶わぬ事だと知って、後悔することが無いよう努めなさい。」

というメッセージだと私は受け止めています。

今回、私の父親が77歳の喜寿を迎えるということで、家族全員でお祝いをいたしました。

発起人は母さんです。

先日、母さんが我が家に遊びに来てくれた時「今年は父さんが77歳の喜寿だから、ホテルを取ってお祝いしたいんだけどどうかな?」という提案がありました。

私はもちろん大賛成でした♬

77歳まで元気に生きてくれたことがとても嬉しいですし、ここまで私のことを見守ってくれていたことに、本当に感謝していましたので喜寿のお祝いでこの気持ちを伝えたいと私は考えました。

喜寿のプレゼント

77歳の父さんへ、プレゼントは何が良いのか考えました。

父さんはゴルフが好きだから、ゴルフに関連するグッズがいいのか、それとも普段から使えるようなものが良いのか、いろいろ考えました。

いろいろ考えた結果、モノをプレゼントするのではなく、子供の頃からの記憶を思い出して、ひとつづつ感謝の気持ちを伝えようと私は考えました。

いつも会ってる家族ですし、あらたまって感謝の言葉を伝えるのは正直なんだか照れ臭いです。

でもいろいろ考えて、ちゃんと言葉に出して感謝の気持ちを伝えることにしました。

人生の棚卸し

ここで一度自分の最初の記憶からたどって、全てを書き出してみました。

自分にどんな記憶が残っているのか。

そしてその時どういう感情を抱いていたのか。

思いつく限り書き出してみると、私はとても多くの愛に包まれていたことがわかりました。

もちろん人生なので、失敗や悲しいこともあり、全てが良いことだけではありませんが、その中でも家族のおかげで自分の成長につながったことはたくさんありました。

そのような良い思い出を抽出して、感謝のメッセージを作成することにしました。

喜寿のお祝い

当日はホテルでお祝いを行う予定でしたが、緊急事態宣言により、酒の提供を制限されていましたので、お料理だけテイクアウトして、実家でお祝いをすることになりました。

札幌ガーデンパレスのお料理はとても素晴らしく、家族みんなで舌鼓を打ちました。

しかも副料理長の岡田さんからは父のために花束をいただいて、お祝いのLINE動画まで送っていただき、家族みんなで喜びました。

食事をしながらいつも通り楽しく話をしていましたが、私はどのタイミングでメッセージを伝えようか迷っていました。

その時父さんが相撲を見たくてちょっとテレビをつけようと言ったので、このタイミングで私はメッセージを伝えることにしました。

以下、メッセージの内容になります。

感謝の言葉

父さんが77歳の喜寿を迎えたこと、大変嬉しく思います。

父さん、おめでとうございます。

それと、今日の会を開催してくださった、母さんとやっちゃん(姉)もありがとうございます。

このように家族みんな揃って楽しく話し合えることの喜びは、私にとって何ものにも変え難いとても素敵なことなのです。

今日はこの素敵な日に、私から少しでも花を添えたいと思いまして、今まで感じてきた感謝の気持ちを伝えたいと思います。

まずはやっちゃん。

やっちゃんは小さい頃からいつもしっかりしていましたね。

琴似の長屋では、川の近くでジャイアンみたいなやつに怖いことを言われた時にやっちゃんが守ってくれた記憶がうっすらとあります。

たしか「恵太もう帰ろう」と言ってその場を離れたような感じだったかな。

小学生のときやっちゃんと二人で赤平(母さんの実家)に遊びに行くことがありました。

私は鉄道の乗り方や行き先など全く分かっておりませんでしたが、やっちゃんは乗り換えの場所から赤平に到着するまでしっかりと把握して私のことを誘導してくれました。

あの時のやっちゃんは、はじめての旅にとてつもない恐怖感を持ちながらも、チャランポランな私のことをしっかりとサポートしてくれましたね。

ある日床屋に行く時に、床屋代の二千円を無くしたことがありました。

やっちゃんはすぐに母さんにお金を無くしたことを伝えに行って、駆けつけた母さんが草むらに引っかかっていたお金を見つけました。

こういう責任感の必要な役割をやっちゃんが担ってくれたくれたことで、私は安心感を持って子供時代の生活を送ることができました。

思春期に入り学生時代はお互いあまり干渉しない感じでしたね。

私が中学生の頃やっちゃんはBOOWYにハマっていましたね。

やっちゃんが音楽好きだったから、私も音楽が好きになったと思います。

わたしがギターで最初にコピーしたのはBOOWYの「B・BlUE」でした。

社会人になってからもやっちゃんは私のことを気にかけてくれて、定期的に話しかけてくれましたね。

やっちゃんはいつも私のことを気にかけてくれています。

やっちゃん、小さい頃から私のことを優しく見守って来てくれてありがとう。

そんなやっちゃんの素敵な部分はやっちゃんの持つ審美眼です。

音楽やファッションなどを見極めるセンスはやっちゃんの右に出るものはいませんね。

私はやっちゃんの持つセンスに厚い信頼を寄せています。

ありがとう。一番そばで私のことをいつも守ってくれたやっちゃんの愛情に感謝いたします。

次、母さん。

母さんはいつも暖かいです。

手稲にいた時、私は「わたり商店」で1回20円のガチャガチャがやりたくて、お金を取りに家に帰ったことがありました。

貯金箱から小銭を取り出して持っていこうとしたら、母さんはお金の使い道を聞いてそのままオッケーしてくれたよね。

あのガチャガチャが私の意思で買ったはじめての買い物です。

母さんの寛容さが無ければ私は一人で考え、買い物をすることができない人になっていたでしょう。

琴似のデパートに買い物に行った時、私はおもちゃを買って欲しくて、おもちゃ売場に行きたかったのですが、母さんがおもちゃ売場に行く様子もないことを子供ながらに悟ったときに、私はふてくされて思わずデパートの外に駆け出してしまいました。

ところが走り出したところまではよかったものの、人混みの中で無我夢中で走ったもんだから、今いる場所がよくわからなくなってしまい、どうしようも無くなって泣き喚いていると私はパトカーに保護されました。

警察官には「どこに住んでいるの?」と聞かれたのですが「アパート」という言葉を知らない私は「すごく大きい家に住んでる」と答えました。

そうこうしているうちに、母さんが私の乗っているパトカーを見つけてくれて私は無事家に帰ることができましたね。

一人になり不安になった時もちゃんと母さんが見つけてくれたんだよね。

中学3年生の時、松田さん(父さんの同僚)の家に行ってひーちゃんがギターを上手に弾いているのをみたら、私はすぐにギターが欲しくなりました。

母さんは私が高校の受験が合格したらギターを買ってくれる約束をしてくれましたね。

無事、高校に合格してギターを買ってもらった時は本当に嬉しかったです。

私の高校生活はあの時のギターがあったおかげで充実したものになりました。

セイコーマートでアルバイトを始めてお金の収入の目処が立った頃、私は新しいギターが欲しくなって、母さんにクレジットカードを借りて札幌まで、タッカ(高校時代の私の親友)と二人でギターを買いにいきました。

その時に何故かタッカもベースが欲しくなったので、母さんに電話してクレジットカードでギターとベースの両方を買っていいか聞いたらオッケーしてくれましたね。

ちょっと普通では考えられないようなことですが、タッカに会うと思い出話でこの話題が大抵出てきます。

母さんはいつも私の欲しいものや、やりたいことを肯定的に考えてくれたので、私はいろんなことにチャレンジすることができました。

今わたしがこのように、チャレンジ精神を持って人生を楽しく過ごせているのは母さんのやさしさのおかげです。

母さんの素敵な部分は、全てを受け入れてくれる海よりも深い優しさにあります。

私は母さんの愛情をこれでもかというほど受け取ることで、人を愛するというとても大切なことを学びました。

母さんいつも優しく見守ってくれてありがとう。

最後は父さん。

父さんはいつも正しいよね。

琴似の長屋にいた時に父さんの背中に乗せてもらって、部屋の中を馬に乗るように遊ばせてくれたのが私の初めての記憶です。

手稲にいた頃は布団に入ってやっちゃんと父さんと私の3人で寝るまで話をしてくれました。

この時から父さんの話は組み立てが上手で面白いなぁと感じていました。

父さんは人と話すのがとても上手くて、全く知らない人でも普通に話しているのを私はよく見ていました。

私が転勤を重ねて、全く知らない人と話をしたり、友達になったりできたのは、父さんが知らない人と平気で話をする姿を見ていたからです。

手稲では私の自転車に付いている補助輪が壊れて外れかかっていたことがありました。

その時に父さんは「もう補助輪いらないんじゃないか?」と言って取り外してくれました。

そのあと「後ろで支えててやるから乗ってごらん」と言われて私は自転車を漕ぎ始めました。

しばらく走ってみて父さんがちゃんと支えてくれているか後ろを見て確認したら、父さんは遥か彼方にいて「あぁ、ここまで一人で走ってこれたのか」と気がつきました。

これが私の初めての成功体験になり、やればできるんだと学んだ瞬間でした。

父さんは東京出張のお土産にとても子供には作れないような車のプラモデルを買ってきてくれました。

私はこんなの作れないと思い、父さんに作ってと頼んだら、父さんはしっかりと作ってくれましたね。

そのあとは、私もガンダムのカンタンなプラモデルから作り初めて、モノを組み立てたり、説明書を読んだりすることができるようになりました。

今のように自分で何かを直したり、作ったりすることができるようになったのは父さんのおかげです。

父さんには本当にいろんなことを教えてもらいました。

キャンプの仕方や泳ぎ方、スキーの乗り方、ヤツメウナギの捕まえ方など。

これだけ私がアクティブに沢山のことを楽しむことができているのは父さんのおかげです。

割とチャランポランな私でも、真面目に休まず仕事をしていたのは、やはり父さんがいつもJRで頑張って仕事をしていたからだと思います。

家に帰って来てからも、父さんが仕事をしていたのを見て、子供ながらにいつも頑張ってるなぁと思って見ていました。

どんなに私が失敗したときでも、父さんはいつも正しいことを話してくれました。

わたしが間違ったことをしている時は、いつも父さんが私の間違いに気付いて正してくれました。

私は父さんのおかげで、正しく、誠実に生きるということを学ばせていただきました。

父さんいつもありがとう。

父さんはいつまでも私の心の拠り所であり、人生の中でいつまでも追い抜くことのできないとても大きな存在です。

そんな私と言えば、この7年くらいは本当に自分のやりたいことをなんでも挑戦してきました。

バイクの免許を取ってツーリングを始めることで多くの仲間と出会うことができました。

バイクの仲間は私に取って宝物です。

そして今年は本当に変化の年でした。

投資、ニーサ、メルカリ、ブログなどなどこれからの人生に向けて着々と準備を進めています。

今はサツドラnoteのライターに応募してnoteで記事を書き始めています。

新しいことを沢山始めて、自分の働き方の道筋や目標も見えてきました。

50歳直前でいまさら道筋が見えてきたなんて、とても遅いと私も思いますが、今を今と捉えて生きていきたいと思っています。

いままでの人生を振り返ってみて思うのは、こんなに何も考えず、自分勝手に適当に生きてきて、さんざんつまづいて、人に迷惑かけまくって、わがままばっかり言って生きてきたのに、そんな私のこと全て受け入れて、赦してくれた家族みんなに心から感謝いたします。

父さんも、母さんも、やっちゃんもみんなのこと、本当に愛しています。

大好きです。

近藤家は世界で一番素敵な家族です。

これからもずーっと一緒に楽しく過ごしていきましょう。

ありがとうございました。

まとめ

今回は喜寿という節目があったことで、私は家族に感謝の気持ちを伝える事ができました。

家族間で素の気持ちを伝えるのって、かなり照れくさいことではありますが、ちゃんと言葉に出して伝えることって本当に大事だなぁと思います。

伝えたくても、それが叶わぬ事が無いよう、いま言葉に出して伝えて行きましょう。

とても個人的な内容ではありますが、家族がいつでも見れるようにしたくて書き留めました。

それでは最後までご覧いただきましてありがとうございました。

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